亡くなった。あまりに突然の
ことで信じられなかった。
今年に入ってからずっと体調を
崩していたそうだ。わたしたちには
わからない、浩太朗君は毎日が
死と背中合わせだったのだろう。
圭子さんからそんな話も聞いて
わたしは浩太朗君の作品が
初めて理解できた気がした。
整体協会で一緒になって6歳ごろから
知っていたが寝たきりでからだが
動かせない浩太朗君に意思があり、
わたしたちと変わらない感受性が
あることを知ったのが5年くらい
前だった。そのころ相次いで
犬たちを亡くし実父にがんが
見つかったり希望のない日を
送っていたわたしは浩太朗君の
ことは奇跡を目の当たりにした
みたいで一条の光が差したように
感じた。
その翌年だったか浩太朗君に
画材を届けに行って多分10年
ぶりくらいで会った時、覚えてる?
と聞いたら浩太朗君は大きな目で
わたしを見て声を出してくれた。
絵や詩を書くようになって
すごくうれしかったこと、誰もが
わからないだろうと思っていた
全介助が必要な浩太朗君に、
浩太朗君は希望の光なんだよと
伝えたのを覚えている。
それから展示会があるたびに
出かけた。ついお盆休みも
見に行ったばかり。
昨日一昨日と葬儀に参列した。
浩太朗君はまるで笑っている
みたいだった。きっと自分が
力の続くかぎりやるべきことを
すべてやって自分を輝かせて
輝きの頂点の時あちら側へ行った
のだと思った。
会場ロビーに展示されていた作品
「木についている時は
枝にゆだね
木からはなれると
風にまかせ
地に落ちると
土と仲よくねむり
自然と人生を考えると
美しい姿で
おわりたい」
体調を崩していた7月に描いた
作品と詩
「人生には地図などない
未来に向かってあゆむのみ
まっかにそまる空
光かがやく
ぼくのたましい」
未完成の絶筆
8月25日に続きを描く予定
だったそうだ。
お盆に県立美術館で見た
浩太朗君の作品
一昨年の秋、秋山の文化祭で
展示された浩太朗君の作品を
見に行った時
浩太朗君は浩太朗君にしか
できない生き方をした。
これ以上できない生き方だった
と思う。お母さんの圭子さんも
ご家族も。残してくれたものは
大きい。
気持ちが行き場のないわたしに
友達がかけてくれた言葉が
ありがたかった。
(悲しみはいつまでも癒えないけど)
「毎日思い出すしかない」
(姿は見えなくなってしまったけど)
「一緒に生きていけますように」
浩太朗君ありがとう
わたしの心にも光をともして
くれた。
これからもずっと、一緒にいるよ
浩太朗君のサイト
http://www.kotaro-happy.jp/lp?fbclid=IwAR3rBhuV0qw-TuCv0eofs0VniyXFJK8524djdMPwpgFEkmEmZORdnaBqhQQ
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あるがままを受け入れた人の境地は優しい。
今頃、好きな絵を存分に描いてるでしょうね。
毎日命に向き合っていた浩太朗君の
こころだったのだと思いました。
毎日の健康管理も大変だったんだって。
昨日からずっと、夢で見たのかわからない
んだけどグレーのスーツ姿の浩太朗君の
姿が浮かんできます。思いやりのある
りっぱな青年でした。